STATEMENT

 

 幼少期に学校で教えられた「普通」に私の生まれ育った家庭はいつだって当てはまらなくて、幼い私にとって「普通」や「平凡」は、とてつもなく高くて手の届かないところにある、遠い存在だった。その頃は「普通」が誰かの主観に過ぎないことを教えてくれる人なんて周囲に誰もいなくて、また、「普通」ではない環境で生きる術を教えてくれる人もいなかった。

 中学生のとき、ある先生に「あなたがそういう家庭で生まれ育ったことはとても不幸だ」と言われて、ああ私はいま不幸なんだな、とその時はじめて思った。私は確かに普通ではない家庭で育ったかもしれないけれど、自分自身の事を不幸だと感じたことはそれまで一度もなかった。その日を境に「不幸」になってしまった私は学校へ行くことがだんだんと苦しくなってしまって、ネットで適当に知り合った不特定多数の人と会ったり、意味もなく街を彷徨ったり、布団に潜ってひたすら小説を読んだりして過ごすことが増えた。学校でも家でもないどこかであれば自分も「普通に」「幸せに」生きられるのではないかと、心の片隅で期待していたのだと思う。

 

 物語を開くと、そこにはたくさんの「普通」に当てはまらない人々が生きていた。はみ出しているのは自分だけではないのだと思ったら、なんだかいつもより少しだけうまく息が吸える気がした。日常の何気ない景色の中にも普通でない物語がたくさん存在すること、普通でないことは必ずしも不幸ではないこと、そして私が今まで信じていた「普通」が物語によってかたちづくられた虚像でしかないということも、すべて物語が教えてくれた。今思えば、私の事を不幸だと言い放った先生も、ただ単に「普通」の外側にある物語を知らなかっただけなのかもしれない。私たちは自分の幸せを自分で決めるという当たり前のことが、なぜだか当たり前にできなかったりする。

 

 実際には経験し得ない出来事も、物語の中であれば人はそれを経験することが出来る。一方、人は自分が実際に経験した出来事も物語を通せば第三者の出来事として俯瞰して見つめることができる。人々は物語を自分の身体と重ね合わせると同時に、切り離すこともできるのだ。それならば、差別や貧困といったあらゆる社会問題の根底にある構造を当事者に提示する手段として、「物語る」ことはある一つの可能性を内包しているのではないか。物語によって作り上げられた「普通」を、物語によって打ち砕くことは可能だろうか。

 

 私の近作は、実話を題材とした物語を作り、それをCGや合成音声を用いて民話のようなかたちで語るという手法で制作されている。CGで作られたキャラクターや合成音声によって語られる実話は妙なリアリティーと違和感を同時に生み出す。それは当事者/非当事者の境界を曖昧にするための手段でもあるかもしれない。

 誰が幸せで誰が不幸かなんてそれぞれの主観に他ならない。自分の幸せを見つけるためには自分の主観を持たなければならないし、自分の主観を手に入れるためにはまず既存の主観を疑わなければならない。本当の普通、なんてどこにも無いのだ。私たちには物語が必要だし、そのための物語を、私は作り続けていきたいと願っている。